韮山城


滝築城年ははっきりしないが「北条五代記」によると文明年間(1469年〜1486年)に堀越公方足利政知の家臣、外山豊前守が城を造ったのが始まりとされている。
初めはあまり大規模なものではなく、延徳5年(1491年)に堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼした伊勢盛時(北条早雲)によって後北条氏の領有となり、同年から早雲によって後北条氏の本拠地として本格的に造営された。
早雲はここを拠点に伊豆の各拠点の支配を進め、後に相模に領土を広げた後も小田原城に移ることなく、没するまでここを居城とした。
その後も小田原城を中心に関東を支配する後北条氏の重要拠点の一つとなり、永禄末年には時の当主・北条氏康の四男・氏規が城主として入り、伊豆支配の中心地とした。
 しかし後北条氏は天正18年(1590年)の小田原征伐では、ほぼ天下を統一していた豊臣秀吉の大幅な攻勢を受ける。
 韮山城にも豊臣秀次の軍勢が迫ったために氏規は籠城して戦い、北条方は総勢約3千6百、豊臣方は総勢約4万4千と伝えられる大きな戦力差のなかで約百日間も持ちこたえたが、ついに開城した。
その後、関東に入った徳川家康の家臣内藤信成が居城としていたが慶長6年(1601年)に転封され廃城となった。(出典元『ウィキペディア』)


韮山城鳥瞰図(出典元『余湖くんのホームページ』)



権現曲輪東虎口より登城。左、右と道が曲げられ敵兵の直進を妨げている。


三の丸の土塁


権現曲輪に向かう。先ほどの登城口は上から恰好の狙い目となっている。


権現曲輪と二の丸を分かつ切岸。10mはあるか?


二の丸から権現曲輪を俯瞰。


二の丸。結構な広さに驚く。


二の丸から本丸を見る。虎口と堀切で遮断している。


本丸へ登城。


本丸から伝塩蔵址に向かって伸びる狭い土橋。


伝塩蔵址




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