高根城


遠江の最北端に位置する高根城は、南北朝時代の応永21年(1414)に、後醍醐天皇の孫にあたる尹良(ゆきよし)親王を守護する目的で、地元国人領主・奥山金吾正定則によって築かれたのが始まりとされています。
戦国期に入り、今川氏がその勢力を急速に伸ばすなか、奥山氏は今川配下の武将として組み入れられ、遠江の北部の大半を支配下に置いていたと考えられます。
ところが永禄3年(1560)、今川家の当主・義元が桶狭間で討たれると、北からは甲斐の武田、西からは三河の徳川に挟まれるかたちとなり、奥山家内部で、このまま今川氏に従うのか、武田に就くのか、それとも徳川に帰属するかで抗争が起こりました。そして永禄12年(1569)、四代目城主・民部少輔貞益のとき、信州遠山郷の遠山土佐守に攻められ落城。その後、高根城は遠江最北端の武田軍の拠点として整備され、武田氏独自の築城術によって改修されました。恐らく元亀3年(1572)、甲斐の武田信玄が上洛のため大軍を率いてこの地を通ったときには既に大改修が行われていたのではないかと見られています。
天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦で武田勝頼が信長・家康連合軍に敗れ、武田氏の勢力が遠江から一掃されたため廃城となる。(出典元『ウィキペディア』)


高根城鳥瞰図(出典元『余湖くんのホームページ』)



山麓より大手口に向けて登城開始。かなり急な坂を登る。


大手口に到着。復元された大手口城門と土塀


本曲輪からの眺望。敵の動きがよく見えたと思われる。


本曲輪内の建物群。井楼櫓は凡そ8mの高さがある。


本曲輪から二の丸、三の丸へ土橋が通じている。


本曲輪南下段虎口と二の丸。二の丸から横矢が掛かっているのが分かる。


二の丸から見た本曲輪と三の丸


二の丸と三の丸の堀切。よく見ると岩盤を掘削しているのが分かる。


三の丸。外側を二重堀切で遮断している。


三の丸側から見た高根城全景




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