滝山城
滝山城は1521年(永正18年)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重が築城し、高月城から移ったという。1546年(天文15年)、北条氏康が河越の夜戦(河越城の戦い)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。1558年(永禄元年)頃、北条氏照は城の大改修を実施した。
1569年(永禄12年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、これに対し北条方は廿里で迎撃したが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったといわれている。(出典元『ウィキペディア』)
滝山城鳥瞰図(出典元『余湖くんのホームページ』)
大手口より登城開始。左、右と道が曲げられ敵兵の直進を妨げている。
小宮曲輪を囲む空堀。切岸の鷹さは10m以上か。
桝形虎口と三の丸。堀も深く、高所からの攻撃に晒される。
三の丸
コの字型土橋。三の丸。、千畳敷、無名曲輪の三方から狙われる。堀も深く、落ちれば這い上がれない。
千畳敷。畳千畳が敷ける位の広さがあったと言われる。ここから弁天池が見下ろせる。
千畳敷から繋がる二の丸西側角馬出。左右の出入口は二の丸から狙われる位置でもある。
二の丸南側空堀。深さは10数mは有る。落ちれば上がっては来れないだろう。
二の丸大馬出から南側馬出を見る。ここまで細い土橋しかない。
二の丸への土橋と二の丸から見た馬出と行止り曲輪。
二の丸と中の丸を分かつ堀切と中の丸の虎口。
下から見上げた中の丸と中の丸からの眺望。
中の丸と本丸を結ぶ引橋。有事の際は本丸側に引き込む構造となっていた事からこの名前が付いた。
二ヶ所ある本丸への虎口。
二段となっている本丸。現在は上段部分に霞神社が建てられている。
滝の集落方面を警戒する出丸。本丸とを分かつ堀切が見事。虎口を俯瞰出来る天狗の鼻(横矢掛)。
小宮曲輪方面とを隔てる谷沢に掛かる木橋跡と堀切。
弁天池の中之島より千畳敷を見る。ここを迂回すると出現する竪堀。登り切っても深い空堀にて到底たどり着けない。
もどる