砥石城
築城年代は不明だが、隣接する真田郷に興った真田氏の外城として築城されたのが最初とされている。天文10年(1541年)5月に海野氏の一族は海野平の戦いにおいて甲斐の武田信虎、信濃埴科郡の村上義清、信濃諏訪郡の諏訪頼重らの連合軍に敗退。砥石城は村上義清が小県郡・佐久郡方面の拠点として大改築したと言われている。
天文19年(1550年)8月、武田晴信は砥石城攻めを行うも、村上義清に敗退する(いわゆる砥石崩れ)。その後真田幸綱(幸隆)が調略によって天文20年(1551年)5月に陥落させる。
天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡、真田昌幸は天正11年(1583年)に上田城を築城開始し本拠を移すが、砥石城は上田城の背後の固めとして重要視された。
天正13年(1585年)、徳川氏と北条氏の和睦条件であった沼田領を真田昌幸が引き渡さなかったことから、徳川家康の大軍が上田城を攻撃したが、その際には真田信幸が砥石城を守備、上田城下に徳川軍をおびき出すのに一役買っている。この合戦では上田城の城兵と伏兵を巧みに用いた攻撃により一説には徳川軍は1300余が討ち死にし潰走したといわれる(第一次神川合戦)。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは中山道を西へ進む東軍の徳川秀忠率いる軍勢に対し、西軍に属した真田昌幸は上田城においてこれを迎撃し、真田信繁が砥石城に籠った。秀忠は東軍に属していた真田信幸(信之)に砥石城攻めを命じ、信繁は兄弟の争いを避けて無血開城する事で9月5日に城を明け渡している。
関ケ原の役の後、真田昌幸の旧領は信幸(信之)に与えられ、砥石城も支城として存続していたものと思われるが、元和8年(1622年)信之の松代城転封に際して廃城となった。(出典元『ウィキペディア』)
砥石城鳥瞰図(出典元『余湖くんのホームページ』)
砥石城の案内図。
登城口にある標識。本当は真田幸村ではなく真田信繁が正しい。
復元された櫓門。上に立つと上田城が見える。
櫓門から急な坂が続く。武田軍の苦労が実感出来る。
砥石城山頂部。一辺20mの広さが有り、上田方面がよく見える。
本城(本丸)へと進む。曲輪が連続して配置されているのがわかる。一部に石垣が残っている。
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本城と桝形城の間の堀切。
桝形城。物見郭程度の広さ。背後に堀切を作って尾根を断っている。
米山城へ向かう。かなり急な坂が続く。
米山城。村上義清の碑が建っている。
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